「開発現場の業務工数のうち、約6割が情報の検索や整理に奪われていた」——。
日本の基幹産業を支える大手自動車メーカー・マツダのこの現状は、自動車業界のみならず、多くの製造・整備現場に大きな衝撃を与えました。
これまで現場を支えてきた表計算ソフト「エクセル(Excel)」。しかし、車両構造の高度化とソフトウェア化が急激に進む現代において、従来の管理手法はすでに限界を迎えています。
なぜマツダは「脱エクセル」へ本格的に舵を切ったのか? そして、この一見開発部門だけの話に見える巨大なDXの波は、今後の自動車整備やアフターマーケット現場にどのような影響を与えるのでしょうか。本記事では、マツダの取り組みの背景から海外競合の事例、そして現場改革のポイントまでを徹底解説します。
自動車開発の現場では、設計書、仕様変更の履歴、テスト結果、パーツ間の依存関係など、膨大なデータが日々行き交います。マツダにおいて、これらデータの多くが長年にわたり「エクセル」で管理されていました。
その結果発生していたのが、データの「サイロ化(孤立化)」と「属人化」です。
こうした積み重ねにより、エンジニアが本来集中すべき「新しい車の価値創造」ではなく、「情報を探す・整理する」という非生産的な作業に工数の約6割が費やされるという本末転倒な状況が発生していたのです。
「なぜ今までエクセルだったのか?」と疑問に思う方も多いでしょう。しかし、従来の「ハードウェア(機械)中心」の車作りであれば、エクセルを使ったファイル管理でも現場の力技でギリギリ回すことができていました。
しかし、近年の自動車開発は一変しました。現在の車両は「走る巨大なスマートフォン」とも呼ばれるSDV(Software Defined Vehicle:ソフトウェア定義車両)へと進化しています。搭載されるECU(電子制御ユニット)の数は100個を超え、制御用ソフトウェアのコード数は1億行以上に達します。
ハードウェアと複雑なソフトウェアが密接に絡み合う現代の車作りにおいて、手作業によるエクセル管理で整合性を保ち続けることは、物理的に不可能な領域へと突入していたのです。
マツダはこの状況を打開するため、2025年より米PTC社が提供するデータ統合管理ツール「Codebeamer(コードビーマー)」の本格導入に踏み切りました。
Codebeamerは、ソフトウェアおよびシステム開発の全ライフサイクルを一元管理するALM(Application Lifecycle Management)ツールです。
| 管理手法 | 従来のエクセル管理 | 統合ALMツール(Codebeamer等) |
|---|---|---|
| データ構造 | ファイルごとに分散(非構造化) | データベースで一元化(構造化) |
| トレーサビリティ | 目視・手動での確認(抜け漏れ多発) | 変更影響を自動で追跡・可視化 |
| 更新管理 | 最新版の先祖返り・競合が発生 | 変更履歴がすべて安全に記録される |
| 安全規格対応 | 膨大なエビデンス書類の手動作成 | 監査用データの自動抽出・生成 |
ALMツールを導入することで、「ある仕様を変更した際、どのテスト項目や他部署の設計に影響が出るか」が瞬時に可視化されます。これにより、手戻りの防止と開発スピードの飛躍的な向上が実現します。
自動車開発では、機能安全規格「ISO 26262」やサイバーセキュリティ規格「UN-R155 / ISO 21434」といった厳格な国際規格の順守が義務付けられています。
エクセル管理の場合、認証機関への提出書類や監査用エビデンス(証拠)をそろえるためだけに、膨大な突合せ作業が必要でした。統合ツールの導入は、これらの認証対応コストを劇的に短縮し、開発現場の負担を大幅に軽減します。
エクセル依存からの脱却は、マツダだけの話ではありません。世界の主要メーカーも同様の課題を抱え、一足飛びにシステム刷新を進めています。
記事のタイトルにもある「AI活用への布石」という視点は極めて重要です。
エクセルに書かれた自由な記述や乱立したファイル(非構造化データ)は、最新のAIであっても正確に読み取ることができません。ツール導入によってデータが一元化・構造化されて初めて、「AIによる設計ミスの自動検知」や「不具合リスクの予測」が可能になるのです。
この開発現場における「データ一元化」の波は、巡り巡って整備工場やアフターマーケットの現場にも極めて大きな恩恵をもたらします。
現在、整備現場では「特定整備(エーミング作業)」や「OBD点検(電子制御点検)」が必須となり、診断機(スキャンツール)なしでの整備は不可能となりました。
設計・開発データのデジタルツイン化(現実の車両とデジタルデータの完全連動)が進むことは、整備現場における作業品質の向上とトラブルシュートの効率化に直結するのです。
メーカーの開発現場であれ、自動車整備工場であれ、「長年使ってきたエクセルを手放す」ことには強い心理的抵抗が伴います。現場のDXを成功させるための重要な視点は以下の3点です。
マツダの「脱エクセル」は、単なるITツールの導入事例ではありません。SDV時代において生き残るための、根幹的な構造改革です。
開発現場から製造、そしてアフターマーケットに至るまで、自動車にまつわるあらゆるデータを軸につなぐこと。このデジタル基盤の構築こそが、今後の日本の自動車産業が世界と戦い続けるための唯一の道と言えるでしょう。