
「止まれ! 早すぎるぞ!」
1896年1月28日、イギリス・ケント州ののどかな田舎道に、けたたましい怒号と、当時は誰も聞き慣れていなかったエンジンの爆音が響き渡りました。
これが、人類史上初めて「スピード違反切符」が切られた瞬間です。
現代の私たちが聞けば、耳を疑うかもしれません。その時、ドライバーが検挙された違反速度は、なんと時速13km(8マイル)。
今の感覚で言えば、ママチャリを少し急いで漕ぐ程度の速さ、あるいはマラソンランナーのジョギング程度の速度です。
しかし、当時の人々にとって、それは恐怖を感じるほどの「暴走」でした。
なぜ時速13kmが罪となり、歴史に名を残すことになったのか。そこには、新しいテクノロジーと古い法律がぶつかり合う、熱いドラマがあったのです。
ハンドルを握っていたのは、ウォルター・アーノルド氏。彼はただの無謀なドライバーではありませんでした。ドイツのカール・ベンツからライセンスを受け、自ら自動車を製造していた「アーノルド・モーター・キャリッジ社」の経営者だったのです。
彼が愛車(ベンツ・モデルの改良型)でケント州のパドルズワース村を疾走していたとき、事態は起きました。

目撃したのは地元の巡査。彼はとっさに自身の相棒である「自転車」に飛び乗り、猛然とペダルを漕ぎ始めました。
最新鋭のガソリン車が、自転車の警官とデッドヒートを繰り広げる――。現代の映画ならコメディのワンシーンにしかならないでしょう。しかし、当時の警官にとっては命がけの追跡であり、アーノルド氏にとっては、ある種の「信念」をかけた逃走劇だったのです。
約8キロメートル(5マイル)にも及ぶ追跡の末、ついに車は追いつかれ、アーノルド氏は御用となりました。

なぜ、たった時速13kmがこれほどの大罪とされたのでしょうか。
そこには、自動車史における悪名高き法律「赤旗法(Red Flag Act)」という巨大な壁が立ちはだかっていました。
19世紀後半、蒸気自動車やガソリン車が登場し始めた頃、世間はこれらを「人を殺める危険な怪物」と見なしていました。馬車業界からの反発も強く、1865年に制定されたこの法律は、自動車に対して極めて厳しい枷(かせ)をはめていたのです。
その内容は驚くべきものでした。
1. 制限速度:
郊外でも時速4マイル(約6.4km/h)、市街地では時速2マイル(約3.2km/h)までとする。2. 先導者の義務:
車両の60ヤード(約55メートル)前方を、赤い旗を持った誘導員が歩いて先導しなければならない。
つまり、「自動車は人の歩く速度に合わせて、後ろをついていかなければならない」というのが法律だったのです。
アーノルド氏は、この日、旗を持った先導者をつけず、あまつさえ制限速度の4倍もの猛スピード(13km/h)を出していました。それは単なる不注意ではなく、時代遅れの法律に対する、技術者としての「公然たる反逆」だったとも言われています。
逮捕されたアーノルド氏は、治安判事の前に引き出されました。
判決は有罪。科されたのは、1シリングの罰金と、訴訟費用などの諸経費でした。
金額こそ微々たるものでしたが、このニュースは瞬く間に広まりました。
「いつまで馬車の時代のルールに縛られているんだ?」
「自動車はもっと速く走れるし、社会に役立つはずだ」
この事件がひとつの呼び水となり、世論は大きく動きます。
驚くべきことに、事件から1年も経たない1896年の後半、イギリス議会はついに重い腰を上げました。「赤旗法」は廃止され、制限速度を一気に時速14マイル(約22km/h)へと引き上げる新法が施行されたのです。

この法改正を祝って、その年の11月、ロンドンからブライトンまでを走る記念パレード「エマンシペーション・ラン(解放の走り)」が開催されました。その第1回大会には、もちろんウォルター・アーノルド氏の姿もありました。
このイベントは、現在でも「ロンドン・ブライトン・ベテランカー・ラン」として続いており、世界最古の自動車イベントとして親しまれています。
現代の整備士やドライバーにとって、時速13kmは「徐行」以下の速度です。
しかし、今日私たちが高速道路を快適に走り、物流が社会を支えているのは、100年以上前に自転車の警官に追いかけられながらもアクセルを踏み続けた、一人の男の「時速13kmの反逆」があったからこそ――かもしれません。
次に車のアクセルを踏むとき、ほんの少しだけ、この歴史的なカーチェイスに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。